東京の両親の墓に参った帰り、いつも立ち寄る骨董屋が霊園のそばにある。家具や仏像、道具、漆器、磁器、ガラス、その他諸々。何か探しているわけではないが、あれこれ見ながら店内をぶらつくのが楽しい。アンダーソンと呼ばれる紀元前の中国の土器の壺を見ていたら、店員さんが在庫数点を全部引っ張り出して見せてくれた。買う気も予算も無いので申し訳なかったが、有難く拝見だけした。表面のうねるような彩文は縄文を思い起こすが、形は弥生、という印象だった。そっと指で弾くと、思ったより硬い音がした。不思議に思ったのは、展示していたもの以外、全て底が尖っていたこと。後で考えてみると、その時代、水平でフラットな場所はほとんど無かったに違いない。砂漠の砂地に突き刺して使ったのかな。。。何かの儀式、そばに大切な水を入れた壺。調べるのを億劫がって、頭の中だけであれこれ想像する。井上靖が中国西域の古代の壺について書いた小説を思い出した。漆胡樽という壺(樽?)が色々な人の手を経て、正倉院の展示室に辿り着く話で、壺に寄り添いながら時空を旅する感じはとてもロマンティックだった。アンダーソンを仕舞ってもらい、外に放置状態になっていた石皿を数千円で買って帰った。石皿はドクダミの花を入れて水盤として翌日から使った。陶器の性質上、何日かすると裏に水が染みてくる。三週間ほど経った頃、水だけでなく濃い飴色の粘液が滲み始めた。調べてみると、石皿は江戸時代に茶屋などで煮染めなどを入れて使われたらしい。